日本を知る旅 in鹿児島(知覧)
広島から鹿児島まで、高速バスで移動。
総時間は、13時間!!(博多のぶらつき時間を含む)
モンゴルでは、任地と首都УБまではバスで14時間らしいので…
意外といけるやん!!
と、任国への準備は万端です。
【博多で寄り道】
博多では、7月1日から博多祇園山笠が始まるそうです。博多駅前に飾ってありました。
山笠を初めて見ましたが、物凄い迫力!!
実際の祭りも見たくなった。
【知覧特攻平和会館】
鹿児島に来た理由は「知覧に行きたいから」
ただ、それだけです。
博多駅から電車に乗って、嬉入駅で降ります。
駅前は何もなくて「あれ?バスも無いのかな…」という雰囲気。
駅の中をグルグル探すと、駅から離れたところにバス停があるそう。
さっそく、移動です。
だいぶ、夏っぽくなってきました。
無事にバスに乗れました。バスが走るのは、山の中、そしてさらに山の中…
でも、車窓からは、鹿児島湾が遠くに見え、豊かな緑と奇麗な畑や田んぼが見えます。
やはり、日本の原風景というか、自然は美しいです。
隊員達も、基地へ向かうときに、この様な風景を見たのだろうか…
特攻観音入口というバス停で降車します。
そして、そこから歩くこと5分ほどで知覧特攻平和会館に到着です。
残念ながら、中の展示物は撮影禁止なので写真はありませんが、webで手に入れることが出来る画像をいくつか紹介します。
特別攻撃隊(略して特攻隊)
特攻隊員は非常に若かったのです。
最年少は17歳。
少年飛行兵は、当時40〜50倍だったそうです。その当時、少年達にとって戦闘機のパイロットは憧れのまとだったのです。
この写真はその少年飛行兵達。
朝日新聞の記者が「君たちはいつ出撃なのかい?」と聞くと「明日です。でっかいやつを沈めて見せます」とこたえたそうです。
事実、翌日に出撃したそうです。
この写真の表情からは、明日特攻隊として出撃するとは全く感じられないですよね。
知覧特攻基地近くにあった食堂の女将さんで有名な、トメさん。
若い特攻隊員達が慕った女将さんです。
特攻隊員達は「自分の寿命の分をおばさんにあげるから、長生きしてくれよ」「また、蛍になって戻ってくるから」(実際に次の日に蛍が見えたそう)
展示してあるものは、遺書が多いのですが、その中の一つを紹介。
御母様 いよいよこれが最後で御座います。
小さい時より御母様には御心配ばかり御掛けして来た私ではありますが、今こうして出撃命令を受け取って見ますと何だか一人前の男になった様な満足感が全身を走ります。
いよいよ一人前の戦闘操縦者として御役に立つ時がきたのです。前にも書いた通り一家の名誉にかけても必ず必ず頑張ります。
御優しい、日本一の御母様。
今日、トランプ占いをしたならば、御母様が一番よくて、将来、最も幸福な日を送ることが出来るそうです。御父様も日は長くかかるが帰ってきて一緒に暮らすことが出来るそうです。
輝夫は本当は三十五歳以上は必ず生きるそうですが、しかし大君の命によって国家の安泰の礎として征きます。御両親様の御写真は一緒に沈めることはいけないことなのだそうで、今ここに入れて御返し致します。
これが、18歳が書く内容でしょうか。。
とても最後まで読むことが出来なくて、途中で思わず近くのベンチに座り込んでしまいました。
多くの特攻隊員が思っていただろう
「自分達が特攻することによって、残された日本人、次の世代の日本人がきっと日本を守ってくれるだろう」
いま、そういう日本になっているのだろうか。
自分はどうなんだろう。。
それを思うと涙が止まりませんでした。
日本は責任とかを、あやふやな国とかにしちゃう。国が悪かったんだ。今も国の政治がわるい。
でも、本当にそうなのか?
特攻隊員の若者達は、国に洗脳されてちゃんとした判断ができなかったから、特攻隊員になったのだろうか?
もっと、今は無くなりつつある、何か大切なもののために特攻隊員になったのではないだろうか?
戦争法案とかいう物騒な名前を付けて騒いだり、難民が経済がといって、とある連合から脱退しそうになってたり、物ばかり増えて何かが失われてきているんじゃないか…
そう感じました。