県内の研究授業へ
ある日「今日から、他の学校で理科の授業があるからアキも見に行こう!」と誘われ、クルマに乗ること15分ほど…
中心地から少し離れた場所にある町の学校に到着です。
学校の壁には「子供それぞれの特別な出会い」と書いてあります。
学年は5年生
単元は「可逆、不可逆な変化」という、なかなか謎の単元です。
例えば…
・水は氷になるし、氷は水になる。(可逆の変化)
・地表の水が蒸発して、雲になり、雨になり、また水になる。(可逆の変化)
・砂混じりの水は、ろ過すると砂と水に分けることができる。
砂鉄を入れた水も、磁石を使って分けることができる。
・紙は燃やすともとに戻らない。(不可逆の変化)
今回の授業は「地表の水が蒸発して、雲になり、雨になり、また水になる」がテーマです。
「どうして雨は降るの?」というザックリとしていて、問題としては追究しにくいものに…
それでも、子供たちはそれぞれ考えつく考えを書いています。
その後、熱々の熱湯を瓶の中に入れてプラスチックの板で蓋をして観察
瓶の中の水蒸気が蓋に水滴となってついて、それが滴り落ちる様子を先生は見せたかったのでしょう。
しかし、子供たちはこの実験器具(?)と自然界の蒸発→凝縮の現象と結びつくのかが難しいところ。
こうした自然界の内容を扱う時に(日本でも)ありがちな、ビデオを見て答え合わせ。
はじめからビデオを見れば済む話をわざわざ実験したり、話し合ったり…
日本の授業でもよくあるけれども、これは全て答えありきの、知識を教える授業をやっているから。
しかし、この考え方は「学校とは?」「教師の仕事とは?」という価値観を根本的に変えないと変わりません。。
授業が終わると先生たちは3つの分科会に分かれて授業について協議します。
たしか…
1.授業の内容に関して 2.先生に関して 3.子供に関して
こうして、視点を絞って話すことは焦点化されていいと思いました。
その後、それぞれの分科会から1人代表で話した内容を発表します。
発表内容も的確で、チョイバルの先生たちのレベルの高さを感じました。
自分は管理職の席に座っていたのですが、いきなりの指名(汗
言いたいことは山ほどあるけれど、モンゴル語が…なので「後ほど」と濁す。
すると、他の管理職の先生が今日一番の鋭い意見を
「先生たちは、今日の授業で実験をしたと思いますか?あれは実験ではありません。観察です。実験とは自分の考えを確かめるために行います。その自分の考えがしっかり考えられていたでしょうか?そのための問題は、あれでよかったのでしょうか?そこまで考えなければならないのです…」
こうした考えを持っている人がいるならば、必ずモンゴルの理科は変わっていくだろうなと思いました。
また、自分が変なモンゴル語でお茶を濁さなくてよかったと心から思った瞬間でした(笑