モンゴル紀行:セレンゲ県スフバートル vol.2
前回の続き。
セレンゲ県スフバートル編が続きます。
スフバートルの自然
「スフバートルにも砂丘があるんだぜ! 」とタクシーのドライバーに言われ、スフバートル砂丘に行きます。
草原の中にいくつかこのような砂丘がありました。
砂もサラッサラで、何とも不思議です。なぜここだけ?
砂丘の近くには川が流れていて、遊牧民の家族がピクニック中でした。
何をさばいているのかを聞いたらヤギでした。
「これからホルホグ(モンゴル料理:肉とジャガイモと人参を一緒に蒸し焼きにする料理)にして食うんだ!」
モンゴル人はホルホグ大好きです。
↓これがホルホグ
こんな湧き水が出てくるところも。
直接飲めるみたいですが、遠慮しておきました。
ちなみに、ドライバーのモンゴル人。めっちゃ良い人だった。
Их Монгол(直訳:めっちゃモンゴル)というキャンプ地?別荘地?避暑地?みたいな場所へ。
やっぱり、自然の感じが全然違う。
樹がある!樹がある!
とても静かないい場所でした。
季節によって、色んな自然が楽しめるそうです。
(でも、冬はやだなぁ)
スフバートルとロシア
ロシアに近い街なので、こうしたロシア店があります。
が!全部が全部、ロシア製ではないので、普段目にしない商品を見て「ロシア製…なのかな?」と探すしかないですが(笑
スフバートルの町から車ですっ飛ばして30分の近郊にアルタンボラグという町があります。これは、まさに国境の町。
遠くに見える教会から先がロシアらしいです。
日本は島国なので、こうした風景は見られないので新鮮ですね。
でも、モンゴル人のドライバー曰く「向こう側はこっちと何も変わらない」とのこと。
まぁ考えてみれば、これだけ近ければ気候も土地も同じなのだから変わらない方が自然なのかもしれません。
スフバートルでの乗馬
スフバートルでも乗馬が出来るところがあるということで、行きました。
この船を使って川の向こう岸に渡ります。泥舟ではないので、ひとまず大丈夫!
着いたのは、普通の遊牧民の家。
白い網をかけて何を作っているのかというと…
アーロールでした!
もう、アーロールも普通に食べられるようになりました。
慣れって恐ろしい…
アーロールを作っているところを見たのは、初めてだったので「なるほど〜」と観察しているとタクシードライバーが「Идэ!:食べてみぃ」的な感じでホイっとくれました。他人の家のアーロール食いたい放題です。
家に来てくれた人はみんなお客さん的なモンゴル人精神ですね。
遊牧民が「ちょっと隣の家におとなしい馬借りてくる!」と行ってしまったので、待っている間、庭先(庭?)でのんびり過ごします。
時間がゆっくり流れている感じ。
遊牧民の子供達が牛を移動させています。
ペットボトルでぶっ叩きながら、牛を移動させます。
とても草原が綺麗な場所で、最高でした。
この小さな黄色い花もとても綺麗です。
群生地では、黄色く彩られています。
緑と黄色と青と白…
自然の色合いというのは何というか完璧です。
日本人抑留
第二次世界大戦の終戦後、武装解除され投降した日本軍捕虜らが、ソ連によっておもにシベリアなどに労働力として移送隔離され、長期にわたる抑留生活と奴隷的強制労働により多数の人的被害を生じたことに対する、日本側の呼称。厳寒環境下で満足な食事や休養も与えられず、苛烈な労働を強要させられたことにより、多くの抑留者が死亡した。
これは実はモンゴルも関係しています。
司馬遼太郎氏がモンゴル首都ウランバートルで、国立中央オペラ劇場を見たときのことをこのように書いています。
「途中、国立中央オペラ劇場の前を通った。
この劇場は日本人捕虜の労役によって建てられたものだという知識は私にあった…
私は、敗戦のときにソ連が多数の日本人を捕虜にし、シベリアからウクライナ、あるいはモンゴルにいたるまで、広大な地域で奴隷労働をさせたことについて、言いがたい感情をもっている。そのソ連の国家行為をむしろ正当化する言い方はある。反省すべきは日本帝国主義の罪悪のほうではないか、とたとえ言われたところで、私は大人だから、子供のように言いくるめられるわけにはゆかない。連れてゆかれた人が私と同世代のひとびとだっただけに、国家次元の問題よりも、人情としてやりきれない思いを持たざるをえず、国家論抜きのいわば婦女子の情としてしてである。
当時のソ連は、旧満州でひっからげた日本人捕虜をモンゴルにも配給した。モンゴルだけでその数は一万三千八百四十七人だったという。二カ年の抑留中、そのうちの一割強(千六百八十四人)が死んだ。」
引用、抜粋:司馬遼太郎「街道を行く5 モンゴル紀行」朝日文庫
首都のウランバートルにも日本人墓地がありますが、スフバートルにもあったので行ってきました。
今は、日本人が遺骨等を日本に持ち帰ったので、日本人墓地跡となっています。
抑留者たちの敵は「飢えと寒さ」だったそうです。
冬の極寒、食べ物の乏しさは身をもって知っているので、さぞかし大変だっただろうと心を痛めます。
最後に
セレンゲ県スフバートル
とても、素敵な場所でした。今回2日間丸々ドラーバーをしてくれたのはミガーさんというモンゴル人です。スフバートルの隊員から紹介してもらいました。
日本人墓地の場所がはっきり分からなくて、あれこれ探していたら遊牧民の若者が「オレは知ってるぜ!5,000MTで教えてやるよ」と言ってきた。
(絶対怪しい…)
でも、ミガーはお金を払ってしまった。
案の定、若者は知らなかった。。
(あぁ、騙されたなぁ)と思っていたらミガーが
「いいんだよ。あいつは多分仕事がない若者だ」
自分との価値観の違いに衝撃を受けた。
金を払ったのだから、それに見合う対価を求めるのが普通だと思っていた。
けど、金を持っている人から持っていない人に流れていくことが、ごく自然な様な気もした。
雨が降って来ました。また草原の命が生き生きとする季節になって来ました。